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観念のアウフヘーベン 誹謗中傷が蔓延する理由・・・ハラスメント対策にも【電子書籍】[ せきでんひろし ]
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<p><strong>〇誹謗中傷が蔓延する理由・・・ハラスメント対策にも!</strong></p> <p>本書は、観念論をベースに、誹謗中傷・ハラスメントなど人の内面や行為に焦点を当て、その対策に用いることができる内容を含んでいます。ただ、本文の内容を活用する場合、おのおので、もう一歩、前進させる必要があるかもしれません。</p> <p><strong>目次</strong>(詳細は本書にて)</p> <p>はじめに<br /> 要旨<br /> 第一 人としての深化<br /> 第二 「情」社会に潜む社会病理<br /> 第三 因果の苦悩、そこを脱する鍵<br /> 第四 国としての深化<br /> 第五 正反往来の住人<br /> 第六 暗記力と良好な観念<br /> 第七 観念を持つことは奇跡<br /> おしまいに<br /> 巻末付録<br /> 〇観念の雑記</p> <p><strong>要旨</strong></p> <p>本書の核心部分は、観念を絶対(一元)とするのではなく、「物」と「観念」を並列に、(それぞれを)一元として捉えている点にある。そのため、そこにはおのずと基点(考え方)の相違により、二者に対立が生じる。つまり、そこでは観念は統一には至らず不完全となる。そして、観念は不完全性を残しつつ、それを受け入れることで、より洗練・昇華されて行く。したがって、本文を俯瞰すれば、ヘーゲルの「アウフヘーベン」を支持しながらも、そこにある「絶対精神」とその内容を比較したとき、観念のあり方(到達地点)について、趣が異なることに気づく。また、本文が、全体論(全体主義)に依拠するか否かの点からも、同じことが言えるのかもしれない。これらを踏まえ、事例を交えながら本文は展開し、構成される。</p> <p><strong>(補足)</strong><br /> 我々の一般的な感覚として、上の要旨だけでは、本文内容がわかり辛いかと思いまして、ここに補足しておくことにします。</p> <p>「人」という文字は、文字の中でも好きな漢字の一つなのですが、改めてその意味を考えてみますと、我々は、普通、それを互いに支え合う言葉として何の疑いもなく受け止めているようです。つまり、人は一人(*1「孤独」)では生きられない。<br /> しかし、そうは言っても真の問題は、どうやって人と人とが支え合うか、その中味が、いかにあるのかが肝要なのであり、ここに人としての重きが置かれるように思われるのです。このように考えれば、単に感情で支え合うのか、相手を理解した上で認識を持って支え合うのかは、言わずもがなです。これを我々に教えてくれるのが、実は、“「孤独」にある”という捉え方を、筆者自身はしてるのですね。<br /> 人と人とが、人に流されるまま、わけもわからず支え合おうとしているうちは、本当の意味で支え合っているのではない。そこではただ、「情」に戯れている、あるいは「情」が外部と群れているだけ。我々に与えられた人間関係の課題は、それゆえ孤独を持ってしかクリアできず、また、他者に対する真の**「愛」<strong>(博愛・隣人愛)も、<strong>孤独</strong>だからこそ</strong>理解**し合うことができる。そう考えているのです。<br /> この問題が、本書のテーマとなります。「人」という漢字の意味を前者で捉えてしまうタイプは、持たなくてもよい苦悩を人一倍、抱えてしまう。それゆえ人に流され、知らず知らずのうちに、自らに本来、備わっているはずの大切なものを外部に差し出し、汚され・毒されて行くわけです。言い換えれば、このタイプ(*)は誹謗中傷やハラスメントなどに関係しやすい心の優しい純真・無垢な気質の持ち主と言っても、けっして過言ではありますまい。これを「性善説」というとき、逆に“人は誰もが罪びとである”とするのが、欧米にみられる「性悪説」の立場です。</p> <p>(*1)孤独には2つある。1つは「好まぬ孤独」(本能の孤独=真の孤独)。もう1つは「選ぶ孤独」(認識の孤独=コントロールする孤独)</p> <p>(*2)我々は、ともすれば被害者の側ばかりに目を奪われがちですが、実は、加害者もまた、ここに置かれている</p> <p>我々が、妙に苦悩しなくて済む一つの手段、頭の切り替えをするための一つのツールとして、ぜひ、拙著を、ご利用いただければ幸いです。</p>画面が切り替わりますので、しばらくお待ち下さい。 ※ご購入は、楽天kobo商品ページからお願いします。※切り替わらない場合は、こちら をクリックして下さい。 ※このページからは注文できません。